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今川義元が見た桶狭間を歩く
名鉄の有松駅を降り狭い路地を抜ける.そこには駅前に開発されている大きなビルとは対象的に東海道の古い町並みが残っている.木綿の絞りで有名な有松に行った時,駅の周辺地図を見て桶狭間古戦場の近くに来ていることを知った.

『過有松邨 邨民粥撮 縫為業村 東即桶峡』

江戸後期の儒学者・頼山陽が有松の井桁屋で詠んだ漢詩だ.この頃から有松は縫い絞りの町として栄えていた.そして詩からも有松の東に位置する桶狭間は特別な地名として知られていたことが分かる.

下調べはしていなかったが,一度は行こうと思っていた桶狭間の古戦場が近くにある.有松駅から歩くことにした.桶狭間といえば織田信長と思い道中を歩いた.しかし途中にあるのは今川義元にまつわるものばかり.敗者の美学の言葉通り,ここでは義元を取り上げよう.

『海道一の弓取り』と評された義元は駿河・遠江・三河を治める大大名.今川家は室町幕府を開いた足利家の支流で,足利が絶えれば吉良が継ぎ,吉良が絶えれば今川が継ぐといわれるほどの名家である.義元は武田・北条と婚姻関係を結んで東の憂いを断つと,上洛するために京へ向けて進軍.京への通り道にある鳴海城・大高城・沓掛城を次々に攻略する.

さらに西へ向かうために沓掛城を出た義元は突然の豪雨に出会う.桶狭間で休憩することにした.そのころ善照寺砦を出た信長は,義元本隊の休息を察知.間髪いれずに雨に紛れて奇襲をかけた.信長は城で震えているに違いない.油断している義元を信長軍の精鋭隊が襲う.降りしきる雨の中,毛利新助の一番槍が義元の首を討ち取った.

これがよく知られている桶狭間の戦いの通説である.

桶狭間周辺は今では閑静な住宅街だ.古戦場公園はその中にひっそりとたたずむ.目立った道標もなく,途中で会った人に道を聞きつつなんとかたどり着くことができた.ようやくたどり着いた公園はとても小さく拍子抜けするほどごく普通の公園.中には幾つか石碑や看板が立つ.

今川義元戦死之地の石碑と義元の墓と伝えられるものの横には,ねずの枯れ木が立つ.義元が馬を繋いでいたという伝説があり,その枯木に触れると熱病にかかるという.無念の最期を遂げた義元の亡霊が氏蛍となって京へ向かって飛ぶともいい伝えられている.

それ以外には,義元が休息の折りに水を汲み暑さをしのがれたという今川義元公水汲みの泉(義元公首洗いの泉).首を断たれた後にその首を洗い清めるのに使ったというが,それにしては石が新しい.戦場公園を作る際に伝説が作られたのだろう.

さて,先に書いた桶狭間の戦いの通説はよく知られたものである.しかし,これは明治の軍国期に陸軍参謀本部によって作られたものであり,最近の研究では多くの疑問が投げかけられている.

第一に,義元の目的が上洛だということが疑問視されている.上洛に向けて義元が朝廷に対して工作した形跡がない.しかも,この頃にはすでに家督を氏真に譲っている.上洛を前に家督を譲るという行為には首を傾げざるを得ない.桶狭間の戦いは戦国期の国境争いであり,義元の目的はせいぜい尾張の国の平定程度であっただろうと考えられている.

そして劇的な奇襲攻撃にも疑惑がある.小説や時代劇などではすっかりおなじみの奇襲であるが,信長は正面から戦ったといわれている.奇襲などなかったのだ.通説の桶狭間の戦いは甫庵信長記が元になっているが,信長公記など歴史的信頼性の高い文献に奇襲の文字はでてこない.奇襲説をとる文献は極少数だ.

なぜこのような奇襲説が生まれたのか.歴史の通説は明治期に骨組みが作られた.明治の軍事史研究では軍に都合の良いように歴史書を解釈した.日本では伝統的に奇襲が強いという教訓を導き出すために日本陸軍は奇襲説を強調したのだ.

今回歩いた桶狭間の古戦場跡から1キロ程離れた国道1号線沿いにも桶狭間の古戦場跡がある.一般的に桶狭間の古戦場といえばそちらを指すようで,同様に義元の墓や記念碑が立っている.

桶狭間の戦いがどのような戦いであったのかが良く分かっていないのと同様,桶狭間の戦いは場所すらも特定できていない.だから色々な仮説が生まれる.しかし,そうやって想像膨らむのが歴史.だから面白い. (2004/10/16)

文章力向上のため,採点に御協力願います:
面白い, まあまあ, 普通, あまり, 面白くない

 

井桁屋服部邸

桶狭間古戦場公園

桶狭間古戦場案内図

今川義元戦死之地

今川義元の墓

今川義元公水汲みの泉

桶狭間古戦場田楽坪


今回歩いたコース(誤りがありましたらご指摘いただけますと助かります)

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