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武田勝頼が見た長篠を歩く
町全体が武田家臣団の墓である.長篠・設楽原を歩いてそう思った.武田家には勇猛果敢に戦う武田二十四将と呼ばれる武将達がいた.

江戸期に庶民に流行した錦絵や武者絵.題材として武田二十四将がもてはやされた.顔ぶれは当時の人気によって描き分けられた.そのため絵によって少々異なる.それでも,武田神社や信玄公宝物館蔵に伝わる二十四将の顔ぶれの多くは同じだ.山県三郎兵衛昌景,馬場美濃守信春,内藤修理亮昌,原隼人佑昌胤….強面の武者姿が立ち並ぶ.

武田家を支えた勇猛果敢な二十四将.その多くは,この長篠・設楽原で戦死している.この地で壮絶な戦いがあったことは想像に難くない.

武田信玄が死んだ2年後の天正3年(1575),武田勝頼は長篠城を攻めた.武田勢一万五千に対し,長篠城を守るのは城主の奥平貞昌を始めわずか五百余り.奥平は信長と家康に救援を要請した.信長・家康はすぐさま連合軍を編成.およそ三万五千の兵を率いて長篠へと向かった.

信玄の頃からの重臣である山県,馬場,内藤らは信長本人の出陣を知り,勝頼に退却を進言.信長との正面衝突を避けようとした.しかし,勝頼はこれらの意見を退け,信長・家康連合軍との戦いを決断した.父・信玄を超えようとした勝頼らしい決断である.

信長・家康連合軍は設楽原に到着するなり,木を組んで柵をはりめぐらせた.馬防柵である.この当時の戦の常識に馬防柵はない.馬同士の戦が基本だからだ.無敵を誇る武田の騎馬隊.馬で挑んで勝てるはずはない.信長は馬を使わずに防戦した.

武田の目的は信長一人である.なんとか強引に攻めようとしたが,柵を前に攻めあぐねた.とその時である.千挺の鉄砲が騎馬隊をめがけて火を噴いた.それでも武田の騎馬隊は勇猛果敢だ.崩れない.すぐに形勢を立て直した.当時の鉄砲は弾を込めるのに時間がかかり,連射はできない.次の発砲までに敵陣に切り込もうとした.

しかし,である.織田の鉄砲隊は続けざまに火を噴いた.連射してきたのである.三隊に分けられた三千挺の鉄砲隊は順々に息をつぐ間もなく発砲.これにはさすがの武田の騎馬隊も総崩れ.多大な犠牲を被った.

長篠の戦いは従来の騎馬の戦術から鉄砲の戦術へと移り変わる様子を予見している.長篠の戦いに象徴される馬防柵と三段打ちの戦術.ヨーロッパで見られるのは,バーデン公ルトヴィヒ率いる神聖ローマ帝国がオスマントルコを破ったスランカメンの戦いだ.長篠の戦いの120年後のことだというから,信長の先見の明にはただただ驚くばかりである.

実際のところ,現在では通説となっている信長のこの戦術には,数々の疑問が投げかけられている.本当に三段打ちがあったのかは分からない.でも真相はどうであれ,この地で壮絶な戦いがあり,多くの優秀な武田家臣団が戦死したことは間違いない.武田家はこの戦いを機に急速に衰退.7年後の天目山の戦いで亡びる運命にある.

決戦となった辺りは,武田軍の戦死者が手厚く葬られ,信玄塚と呼ばれている.決戦後間もなく信玄塚から大量の蜂が発生した.村人は困った.これを武田軍の亡霊だと信じた村人は,武田軍の霊を慰めるために松明を灯して供養したという.

これが始まりで,今でも信玄塚周辺ではお盆の夜に一斉に松明を振りかざし,夏の夜空を焦がす『火おんどり』が行われる.この鎮魂の火祭りは長篠の戦い以降,一度も絶えることなく400年以上も続けられているという.

火おんどりが行われる信玄塚を中心にその周辺には武田家臣の墓が立っている.数が多くあちこちに点在しているため限られた時間ではとても全ては回れない.それでも,有名所は回っておきたい.設楽原歴史資料館で手に入れた周辺地図を片手に近いところから順に原,山県,甘利,土屋,馬場と回り始めた.

よく整備されている.あちこちに道標が立っていて,比較的探しやすい.しかし,高坂弾正忠昌信の嫡男高坂昌澄の墓はついに見つけることができなかった.地図の示すところにない.地元の人にも聞いてみたが知らないという.案外こういった史跡は身近な人ほど知らないものなのかもしれない.

また,恥ずかしながらこの地に来るまで知らなかったのだが,周辺を歩いていると鳥居強右衛門(すねえもん)という人物に出会うことになるだろう.赤鬼のような形相で磔台に縛られている人物だ.設楽原歴史資料館に展示されているのぼりに描かれており,町周辺の看板でも度々見かける.

強右衛門は勝頼に攻められている長篠城から家康のいる岡崎城へ救援を求める使者の役目を果たした.救援を要請した後に岡崎でゆっくり休むよう家康にいわれるが,城の状況を考えると休んではいられない.救援が来ることを一刻も早く城に伝えたい.強右衛門はすぐに来た道を引き返す.しかし,不幸にも途中で武田軍に捕らえられる.

勝頼は援軍が来ないと城兵に伝えれば命を助けることを強右衛門に約束.城内の志気を下げさせようとした.強右衛門は磔にされ口上の機会をもった.援軍は来るのか来ないのか.城兵は固唾を呑んで強右衛門の言葉を待つ.その時,強右衛門の口から出た言葉は,

「二,三日ノ内後詰ゾ」

援軍到来を伝えた.城内から湧き上がる歓声.この言葉に勝頼は激怒.ただちに,強右衛門磔殺の命を下した.武田軍の中にこの強右衛門の行動に感銘を受けた者がいた.名を落合左平次という.左平次は強右衛門の磔姿を描いた旗を自分の背旗にした.それが赤鬼の形相として伝わっている.

さて,一般的には信長の先見の明と対比するように勝頼の凡愚さが描かれ,長篠の戦いでは信長・家康連合軍の大勝利かのように思われている.しかし,実はそうでもない.武田軍の戦死者は一万余人.しかし,連合軍も六千もの犠牲者を出している.

勝頼は決して凡庸な武将ではない.領土は信玄の時以上に拡大しているし,戦さぶりや外交面から見ても決して凡庸ではない.しかし,父・信玄の名声が大き過ぎた.勝頼は,信玄の亡霊と戦っていたに違いない.信玄の頃からの重臣と張り合うためにはここで信長と戦うしかなかった.

偉大な者の後を継ぐこと,後継者を育てることの難しさを考えさせられる. (2005/5/4)

文章力向上のため,採点に御協力願います:
面白い, まあまあ, 普通, あまり, 面白くない

 

信玄塚(大塚)

原隼人佐昌胤之碑

山県三郎兵衛昌景之墓

馬防柵

土屋右衛門尉昌次戦死之地

馬場美濃守信房之墓

鳥居強右衛門磔刑図

鳥居強右衛門磔死之碑

長篠城址


今回歩いたコース(誤りがありましたらご指摘いただけますと助かります)

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