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歴史閑話(一)
尾張徳川家について
大阪から尾張地方へと引っ越し,四年をこの地で過ごした.この度,名古屋から筑波へと引っ越すことが決まった.尾張地方を去る前に尾張徳川家について書いておきたい.この地に来るまでは『御三家の一つ』くらいの認識しかなかったが,実際に住んでみると関係する史跡が多数あり,風変わりな人物も輩出している.調べていると興味が尽きない.

尾張初代は,家康の九男義直.この義直,二代目光友,最後の藩主慶勝についてはすでに書いた.義直は文武に秀でた名君であり,甥にあたる家光に何かあった場合には将軍職を引き受ける意志があったようだ.それは,家光が病床に伏した際に大軍を率いて江戸に向かったという行動にも現れている.

しかし,この行動は長い目で見ると裏目に出たのかも知れない.徳川七代将軍である家継が八歳の短い命を終えた時,後継者争いがあった.八歳の将軍に子がいるはずもない.将軍家に嗣子がない時にこれを継ぐ権利を持っているのが御三家の尾張家と紀伊家である.

尾張六代目の継友と紀伊五代目の吉宗が候補として擁立された.家の格としては尾張家が筆頭である.しかし,陰謀渦巻く後継者争いは家の格だけで決まるほど単純な問題ではない.将軍後継者争いは,家継を生んだ月光院と先の将軍家宣(いえのぶ)の正室天英院の大奥における対立でもあった.

月光院は正徳の治を行ってきた間部詮房や新井白石を後ろだてにして尾張継友を推した.しかし,側用人や儒学者の政治介入を煙たがる譜代大名勢力は天英院に味方し,紀伊吉宗を擁立した.そして,先の義直の行動を例に上げ,家光公以来,宗家は将軍候補として尾張家を忌避する習慣があるとして,吉宗が八代将軍に選ばれた.

候補から退けられた継友が死んだ後,尾張七代目を継いだ弟の宗春は吉宗に反発.質素倹約を基本とする享保の改革を批判した.宗春は行き過ぎた倹約は庶民を苦しめ,規制を増やしても違反者を増やすだけだと主張.名古屋城下に芝居小屋や遊郭を誘致し,遊興や祭りを奨励した.消費の拡大を目指した規制緩和政策である.日本中が不景気の中,尾張だけが活気に溢れ,民衆の喝采を浴びた.

しかし,これらの政策は吉宗から咎められ宗春は隠居謹慎処分.名古屋城三の丸に幽閉され,一切の外出も認められなかった.処分としては相当厳しいものだ.死後も処分は続き墓石には金網が掛けられた.網が撤去されるのは没後75年経ってからのことである.

吉宗と宗春.お互いに政治手腕を認めあっていたようではあるが,相反する政策を行った.宗春が徳川家将軍になっていたら,どんな政策を行ったであろうか.歴史に『もし』はないが,想像してみると面白い.日本中が活気付いたのか,それとも赤字経営へと転落したのか.現代の日本の経済に照らし合わせてみても面白い.

吉宗以降,天下は太平を取り戻し将軍に政治力は求められなかった.よほど将軍は暇だったのであろう.十一代将軍家斉は五十七人もの子女をもうけている.そして,嗣子がいないと御家断絶になることを利用して,これらの子女を諸大名の養子や嫁へと押し込んだ.無理矢理押し込まれる方はいい迷惑だ.特に被害が大きかったのが尾張徳川家である.

まず手始めに家斉は尾張十代斉朝の正室に長女淑姫を送り込んだ.しかし,斉朝には子ができなかった.すると今度は四十六番目の子斉温を斉朝の養子に入れて尾張十一代とした.そして,斉温が死ぬと三十番目の子斉荘を十二代に押し込んだ.実の姉弟兄が親子孫の関係になったのだ.なんとも複雑な関係である.ここで義直以来の血統は途絶えることになる.

尾張藩内で養子藩主の評判は芳しくない.斉温は藩主になったにも関わらず,尾張には一度も入国することなく死ぬまで江戸暮らしを続けた.しかも趣味が高じて何百羽という鳩を飼育し莫大な費用を費やしたという.押し付けられた養子に不満を持ったグループは金鉄党を結成.尾張支藩高須松平家の秀之助を藩主に迎えることを画策する.これが,最後の藩主となった慶勝である.

戦国期には信長,秀吉,家康の三英傑を輩出した尾張地方であるが,幕末期には目を見張る活躍をした人物を出ていない.しかし,近年は日本経済が冷え込む中で,トヨタのカンバン方式を初め,愛知万博や民間空港セントレアなど愛知一人勝ちの感がある.御三家筆頭としてのプライドは高く『尾張は尾張で独自の道を行く』という精神は経済界だけではなく,文化や食事・ファッションなどにも色濃く残っている. (2006/3/31)

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