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伊能忠敬が見た佐原を歩く
満月の夜を十五夜という.月が完全に欠けた新月から約15日で満月になる.そして約15日でまた新月へと戻る.月の満ち欠けの周期はおよそ29.5日.これを1ヶ月とすると12ヶ月は354日になる.

現在の1年365日に比べて11日も短い.このため長年経つと同じ4月でも季節が異なってくる.それでは不便だ.そこで約3年に一度閏月を作ってズレを修正する.閏月がある年は1年が13ヶ月になる.このように月の満ち欠けを基準にして作る暦を太陰暦という.

これに対して地球が太陽を回る周期を1年に定める暦を太陽暦という.地球の公転周期はおよそ365.24日だから,1年を365日にすると余りが生じる.この余りを積算してズレを修正するのが閏年である.4年に一度,366日になる.

元来日本では太陰暦を採用していた.しかし明治6年に太陽暦に改暦.ちょうどその年は閏月の年.1年は13ヶ月だ.明治になって役人に月給制を導入.給料を13回支払うのを避けるために太陽暦が採用されたとも言われている.

元々暦の編纂は朝廷の仕事であった.当時は中国暦の影響を強く受けていたが徳川五代将軍・綱吉の代に和暦が完成.幕府天文方が設置された.それ以降は幕府の手によって暦が編纂され,武家によって改暦が指示された.

使っている暦が正しいかどうか.それを評価する指標が月食や日食の予想である.暦は天体の動きを元に作られる.暦を編纂するものは天体の動きを説明する義務があった.

民間の暦学者・麻田剛立は日食を予言した.しかし,宝暦5年(1755)に改暦された宝暦暦はこの日食を予想できずに権威は失墜.幕府は麻田の弟子である高橋至時(よしとき)を天文方に招き寛政暦の編纂を命じた.完成したのは寛政10年(1798)である.この暦をもとに46年後に天保暦が作られ,太陽暦が採用されるまで使われた.

鎖国によって海外との交易を持たなかった当時,医学と共に西洋文化の輸入に積極的だったのが暦学である.暦学は,算学,天文学,測量学を一体とした学問である.幕府天文方ではオランダから洋書を輸入し,それらの勉強に勤しんだ.

至時の門弟に風変わりな人物がいた.弟子とはいっても至時よりも20歳近く年長.しかも教えを請うたのは満50歳になってからである.この翁は外出を嫌い,正午には自宅で太陽の高さを測る毎日.師の至時と討論していても夕方には帰宅して星を観測.至時はこの門弟を冗談ぽく推歩先生と呼ぶこともあった.後に日本地図を作成する人物,伊能忠敬(いのうただたか)だ.

佐原の大地主である伊能家に婿養子に入った忠敬は酒造家や運送業を兼ねていた伊能家に繁栄をもたらした.佐原が凶作の時には米や銭を出して窮民を救い,江戸で米や酒を売って財をなし,佐原で還元した.救われた民は伊能家からものを買う.伊能家に財が集まった.忠敬が前半生を過ごした邸宅が佐原に現存する.

利根川の水運で繁栄した佐原は北総の小江戸といわれた.町の中心を流れる小野川沿いには今も古い町並みが軒を連ねる.その一画を占めるのが伊能家の旧宅である.書院は忠敬自身が設計したものだという.昔は屋敷内に伊能忠敬記念館があったようだが,今は川を挟んだ向いに移転している.

記念館へ向かおうと樋橋を渡ろうとした時のこと,橋から水が音を立て流れ始めた.この橋は別名ジャージャー橋という.橋の脇から勢いよく小野川に水が流れ込む.農業用水を水田に送るために作られたものだ.涼しい水の音は残暑を忘れさせる.耳を澄まし,音の風景にしばらく見入った.

この地で地主として伊能家の隆盛を誇った忠敬は50になってから隠居.江戸深川に移り住み,勘解由を名乗った.江戸に移ったのは至時の門弟となるためだ.天文方の門弟.忠敬第二の人生の始まりである.

この当時,地球は球であると考えられていた.球ならば半径を知りたくなるのは自然である.紀元前からこれらの問題には興味が持たれていた.2地点の太陽の南中時刻の差から半径を求めたり,月食に映る地球の影から地球の大きさを求めたり,ある程度の見当は付けられていた.しかし,それらが正確な数字かどうかについては誰も確信を持つことができなかった.

至時は地球の正確な大きさを知りたいと考えた.忠敬は自宅と浅草の天文台の緯度差を調べ,その南北距離を歩測によって丹念に測り,緯度1度の距離を算出した.しかし至時はこんな小さな緯度差では正確な値を得ることはできないと指摘.少なくとも江戸と津軽あたりまでの緯度差と距離を知る必要があると考えていた.

幕藩体制が取られていた当時,他国を旅するのは簡単なことではない.しかも象限儀など多くの測量道具を持ち運ぶ必要がある.手形と共に金も必要だ.全国各地で測量したい,でも難しいそれが現実だった.しかし,この望みは思いの他早く叶えられた.幕府が蝦夷地を測量する必要に迫られていたのだ.

黒船率いるペリーの来航によって鎖国が解かれた訳だが,以前からその予兆はあった.早くから通商を求めていたのは南下政策をとったロシアである.当時はまだ樺太が島か大陸かも分かっておらず,北に関してはどこまでが日本の領土か分かっていなかった.ロシアも同様で,南のどこまでがロシアか分かっていなかった.土地を測量して土地をよく知る.それが領土保有の条件だ.

日本の領土を主張するために蝦夷地を測量したい幕府と地球の大きさを知りたい至時の思惑が一致した.至時は蝦夷地の測量に忠敬を推薦.金を出し渋る幕府に対して忠敬は自費を投入して蝦夷地の測量部隊を組んだ.この時忠敬55歳.辞令は『天文方高橋至時弟子浪人伊能勘解由』宛である.隠居した身とはいえ浪人はひどい.この当時の忠敬の身分はこの程度であった.

忠敬は正確な地図を幕府に提供することで,自分の存在価値を高めようとした.この思惑は成功した.幕府は忠敬の提供する地図に価値を見出し,全国の測量を命じた.忠敬は70歳になるまで北は蝦夷から南は四国,九州まで測量し,その観測回数は10度にも及んだ.その健脚ぶりに驚くばかりである.

最初の蝦夷地観測の折には27里余りと報告していた緯度1度の長さは測量を重ねる毎に精度が上がり,ついには28.2里という結論をだした.実際との誤差は0.2%ほどである.

しかし,師の至時はその答えが正しいかを結論付けることはできなかった.むしろ疑っていたように思える.その時のやり取りが面白い.忠敬は西洋から伝わる値は15里だとか60里だとか小数点以下がないのがおかしいと指摘した.それに対して,至時は小数点がないからこそかえって精密な数字だと反論している.

この論争は後にラランドの訳書を読んだ至時が地球は完全な球ではないことを知り,緯度38度付近の1度の長さが忠敬の実測値と一致することを計算で確認することで,決着した.

忠敬が作成した大日本沿海輿地全図は美しい.海岸線は詳細に描かれ,街道にはびっしりと地名が書かれている.目印となる山や川はもちろんのこと,城や寺社の様子なども描きこまれている.実用的でありかつ芸術的である.

大日本沿海輿地全図,通称伊能図には大図・中図・小図の3種類がある.一度1町1分(約109メートルを約3センチ)で表した大図を床一面に並べたものを見たことがある.場所は中日ドームであったが,球場一面に広がり文字通り圧巻であった.

測量して地図を描く.忠敬はその作業を繰り返した.最後の測量から地図の完成までには5年の歳月を要した.しかし,残念ながら忠敬自身は完成を目前に病没.既に至時も亡く,仕事は至時の長男・高橋景保に引き継がれ,伊能図は幕府に上呈.あわせて忠敬の喪も発表した.

忠敬の遺骸は遺言通りに浅草・源空寺に眠っている.忠敬と至時,天文から発展し日本地図の完成に生涯をかけた2人の墓は隣りあわせに建っている.伊能家の菩提寺は佐原にある観福寺である.大きな趣のある寺だ.ここには髪と爪が葬られている.ひぐらしが寂しげに鳴く中,読経が聞こえていた.

忠敬が天文方の門を叩いたのは50歳.ファーブルが昆虫記の執筆に取り掛かったのも50を超えてからである.2008年という団塊の世代の大量定年時代を目前に控え,ますます注目される人物ではなかろうか.日本経済が冷え込む昨今,世の中は団塊の世代の定年後の消費についてばかり注目しているように思える.私はむしろ第二の人生の生産について期待したい. (2007/9/9)

文章力向上のため,採点に御協力願います:
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伊能忠敬画像

伊能忠敬先生の銅像

正文堂

小野川

伊能忠敬旧宅

伊能忠敬旧宅書院

この一歩から測量の日

樋橋

伊能忠敬記念館

観福寺本堂

忠敬の墓

本州中部小図


今回歩いたコース(誤りがありましたらご指摘いただけますと助かります)

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