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足利直義が見た鎌倉宮を歩く
戦乱の時代,肉親同士の争いは珍しい事ではない.家督争いは兄弟であるが故に起きる.織田信長は弟・信行を討った.伊達政宗も,弟・小次郎を討った.兄弟が存在するために家臣が分裂する.今後のことを考えると,兄弟といえども生かしてはおけない.

その一方で何故争わねばなかったのかと思う兄弟もいる.足利尊氏と直義(ただよし)の兄弟がそうだ.室町幕府を開いた尊氏には,同父母の弟がいた.それが直義だ.弓矢の兄と政道の弟.優柔不断な兄と沈着冷静な弟.陽の兄と影の弟.お互いに無い部分を補い合い,二人が揃ってこその足利家であった.

幼少の頃より仲は良かった.足利家の政権を手にするために力を合わせて戦った.家臣の誰もがこの兄弟が最終的に争うことになるとは予期しなかったに違いない.

鎌倉幕府最後の年である元弘3年(1333),名和長年が後醍醐天皇を奉じて挙兵した.その討伐に向かったのが尊氏だ.この頃は高氏と名乗っていた.時の幕府得宗・北条高時から一字をもらった名だ.高氏(尊氏)は幕府軍を率いて入京.直義も付き従った.しかし,二人が攻撃した先は後醍醐天皇こもる船上山ではなく,京の幕府本拠地・六波羅探題だった.尊氏は密かに後醍醐天皇に通じ,倒幕の勅命を得ていた.

それに呼応したように鎌倉を攻めたのが新田義貞だ.わずか百五十騎で旗揚げした.途中,六波羅陥落の噂が伝わり,次々と関東の兵が合流した.鎌倉に着くころには数万の軍勢に膨れ上がったという.義貞は稲村ヶ崎から鎌倉に進入.最期を悟った高時をはじめとする北条一族は東勝寺で自刃した.その数八百七十余名.殉じた恩顧の者は六千余名にも上るという.この時,遺体が葬られたのが高時腹切りやぐらだ.

鎌倉の大通りである若宮大路と平行に小町大路を歩く.腹切りやぐらの標識を見つけ右折する.少し進むと東勝寺があった辺りだ.今はフェンスに囲まれ跡地の碑が立つのみである.そこから少し進むと腹切りやぐらにたどり着く.

一見すると鎌倉でよく見るやぐらである.中には五輪塔が置かれ,梵字の書かれた塔婆が立てかけられている.石室に一歩踏み入れると鬱蒼として薄暗い.ひんやりとした冷気がまとわり付く.なんだか背筋がゾクゾクするようだ.このやぐらが北条の最期を知っているからだろうか.

後醍醐天皇は北条一族への供養を入念に行った.北条執権屋敷の跡地には北条一族の霊を鎮めるために宝戒寺を興させた.

鎌倉幕府の成立によって公家の京都に武家の鎌倉という考えが定着していた.北条なき鎌倉を治めるのは誰か.鎌倉を治めることは武家の頂点に立つことに等しかった.尊氏か義貞か.武家の誰もが注目した.

足利家と新田家は元は同族で源氏の出身だ.しかし家の格は足利家の方が上だ.しかも尊氏には不思議な人望があった.武家は皆,尊氏が鎌倉入りすることを望んだ.尊氏もその気だっただろう.しかし,後醍醐天皇がこれを許さなかった.後醍醐天皇の理想は天皇家主体の国家を作ること.戦が終わると武家は用済みだった.尊氏が必要以上に力を持つことを恐れた.

結局,鎌倉入りしたのは尊氏の嫡男・義詮(よしあきら)である.この時四歳.補佐役として直義も鎌倉入りした.尊氏は京,直義は鎌倉で建武の新政がスタートした.

京の尊氏と対立したのは護良(もりなが)親王である.後醍醐天皇の皇子で征夷大将軍に任じられていた.戦の中に身を置くこの皇子は尊氏の人望と戦上手を敏感に感じ取っていた.しかし,強烈な個性を持つ皇子は尊氏だけではなく後醍醐天皇とも衝突した.遂には征夷大将軍を解かれ鎌倉に配流.直義に預けられた.護良親王は鎌倉で土牢に閉じ込められることになった.

天皇中心の建武の新政はすぐにほころび始めた.信濃に隠れていた北条家の残党が兵を挙げた.総大将は北条高時の遺児・時行だ.これを中先代の乱という.時行は鎌倉を攻めた.守るのは直義だ.直義は政道の人.戦は存外苦手だった.混乱の中で幽閉していた護良親王を殺害.三河まで陣を引いた.一時的に鎌倉を明け渡すことになった.

護良親王が閉じ込められていた土牢近くには明治になって鎌倉宮が創建された.鎌倉宮は多くの人で賑わっていたが,その裏手にある土牢はひっそりとして対照的だった.もっと人は少なかったが,是非訪れてみたいのが護良親王墓である.これも作られたのは明治になってだが,長く続く石段の先にひっそりと墓が立っている.

今回の歩き方の最終地は護良親王の幽閉地である鎌倉宮だ.だが,歩く順番の関係上その説明は最後に回そう.

鎌倉陥落の報を聞いた尊氏はすぐさま応援に駆けつけようとした.だが,後醍醐天皇がこれに待ったをかけた.尊氏が京を離れて武力を持つことを恐れた.しかし尊氏は待たなかった.直義を助けるために鎌倉へ向かった.事実上の新政離脱である.

鎌倉奪還後も尊氏は京に戻らなかった.いや,尊氏は戻ろうとした.直義がこれを止めた.京へ戻れば恐らくは処罰されていただろう.政道の直義の判断は正しかった.

この後も二人の協力体制は続く.尊氏は後醍醐天皇を討つべく入京.直義は義詮の後見役として鎌倉を守った.後醍醐天皇は吉野に引いてからも尊氏包囲の手を弛めなかった.陸奥から尊氏討伐のために兵を挙げたのが北畠顕家だ.まずは鎌倉を攻めた.直義はやはり戦が下手だ.守りを斯波家長に任せ,自身は義詮と共に落ち延びた.

さて,宝戒寺から向かったのは杉本観音寺である.紅葉のシーズンだったこともあり,人の往来が多い.鎌倉の道は狭い.見知らぬ人達と一列の集団になりながら進む.渋滞する車を横目に杉本観音寺に到着した.

石段を見上げると苔むす様が美しい.本堂の横には石塔群が並んでいる.この寺は杉本氏の城を守る機能を兼ねていた.斯波家長とその一族郎党は直義と義詮が逃げる時間を稼ぐためにこの地で戦い戦死した.石塔群はその供養塔だ.一面に広がる石塔には歴史の悲劇が眠っている.

尊氏と直義の仲が拗れ始めたのでは,足利家の執事である高師直と直義の不和が始まりだ.しかし,師直死後もその関係は修復できなかった.最終的に尊氏が鎌倉にいる直義の元を訪れ毒殺する.その地と伝わるのが報国寺だ.残念ながら直義にまつわるものはない.竹林が生い茂り,この地がどこなのかが分からないような感覚に陥る.

報国寺から鎌倉街道を挟んで浄妙寺がある.浄妙寺は足利氏の菩提寺だ.今も尊氏の位牌はもとより,直義の位牌が守られている.奥の小高い墓所にはひっそりと兄弟の父・貞氏の宝篋印塔が立っている.ここから浄妙寺を見下ろすと本堂と衣張山が一直線に並び景観がすばらしい.

さて,ここから今回の最終目的地である鎌倉宮を目指す. (2008/8/17)

文章力向上のため,採点に御協力願います:
面白い, まあまあ, 普通, あまり, 面白くない


阿刀田 高 「楽しい古事記」 角川文庫

「国を譲れ.イエスか,ノウか」と直截に迫った.オオクニヌシの命があらためて侵入者の理屈に耳を傾ければ,「アマテラス大御神の仰せですぞ.あなたが治めているこの国は,そもそも大御神の子が治めるべきところなのだ.どうかね」である.態度がデカイ.-そりゃ,あんまりな-と思うけれど,背後に強い武力が控えていたにちがいない.

 

高時腹切りやぐら

宝戒寺

杉本観音寺石塔群

報国寺竹林

浄妙寺本堂

足利貞氏宝篋印塔

護良親王墓

瑞泉寺岩庭

鎌倉宮土牢

天主台からの眺望

信長公本廟

織田信雄公四代供養塔

摠見寺三重塔

摠見寺仁王門

信長の館・安土城天主

沙沙貴神社

浄厳院

宇豆柱

宇豆柱


今回歩いたコース(誤りがありましたらご指摘いただけますと助かります)

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