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結城宗広が見た白河を歩く
福島県は浜通り・中通り・会津と縦に分断された三地域に分けられる.勿来・いわき・相馬をラインとする浜通りは比較的温暖でほとんど雪は降らない.太平洋に面しており,海の幸も豊富だ.一方,山側の会津は雪が深く,山の幸が豊かだ.気候においても文化においても,その中間に位置するのが白河・郡山・二本松・福島の中通りだ.

浜通りのいわき駅から中通りの郡山駅までは列車でおよそ1時間半.単線のローカル線にのんびりと揺られる.車窓の景色は徐々に雪景色へと変わっていった.

中通りには奥州街道が縦貫する.奥州街道とは江戸日本橋から白河までをいう.そこから先は仙台道へと続く.白河は奥州と江戸をつなぐ要の地だ.白河の関があることからもそれは知れよう.郡山で東北本線に乗り換え白河へと向かった.数日前に雪が降ったのだろう.所々に白い景色が残っていた.

白河駅に降りると目の前に見えるのが小峰城だ.まずは城へと足を向けた.張り巡らされた石垣が壮大だ.東北で総石垣の城は珍しい.石垣の頂上には天守に相当する三重櫓が建っている.小峰城は東北三名城の一つだが残念ながら現存物ではない.幕末の戊辰戦争で新政府軍と奥羽列藩同盟軍がこの地で戦い,城は炎上した.街道ゆえんの運命だ.再建にはコンクリートは使わず,木造で往時の状態を忠実に再現した.古さはないが,中に入ると木の匂いが立ち込めていて,趣きは感じられる.

白河藩といえば寛政の改革を行った松平定信が有名だ.市民にとっても断然人気が高いという.三重櫓を登った後は城内に建つ集古苑に立ち寄った.定信は今でいう博物図鑑を編纂した.その書物の名を集古十種という.集古苑はそこから名前を取ったのだろう.

苑内は予想と違っていた.定信の痕跡は微塵も無い.結城家に伝わる古文書が展示されていた.白河に足を踏み入れたときには迷っていた.定信を書くか結城家を書くか.知名度は定信が断然高い.集古苑の入口に立った時には定信に揺れていた.しかし,この古文書を見た瞬間,結城宗広を書く事に決めた.

結城家の発祥は茨城である.今でも結城の地名に名を留めている.白河結城はその分家だ.宗広は白河結城の2代目で新田義貞の軍に従い鎌倉幕府滅亡のために戦った.そして,南北朝時代には南朝方の忠臣として後醍醐天皇への義を貫いた.

足利尊氏が征夷大将軍になった暦応元年(1338)のことだ.後醍醐天皇の新政はほころび始め,多くの武士が離反.尊氏の下に集まった.尊氏はその勢いで京に攻め入り,後醍醐天皇を吉野に追いやった.南朝方の宗広は北畠親房(ちかふさ)らと義良親王(のりよししんのう)を奉じて海路で奥州へと向かった.奥州で尊氏を討つための兵を集め,再起を図ろうとしたのだ.

宗広ら一団を待ち受けていたのは暴風雨だった.宗広と義良親王は伊勢に押し戻され,親房は霞ヶ浦近くに漂着した.その後,まもなく宗広は発病.病死する.宗広には二人の息子がいた.次男の親光(ちかみつ)は尊氏を暗殺するために偽って北朝に降服.しかし,暗殺計画は見破られ殺害されていた.長男の親朝(ちかとも)は領国白河を守っていた.

北関東に漂着した親房は南朝の勢力を拡大するために手を尽くした.後醍醐天皇の下に集まれ.南朝のために兵を挙げろ.北関東の領主に文を書き続けた.中でも親房が期待したのが宗広の遺児・親朝だ.白河は奥州要の地だ.親朝が動けば奥州が動く.親房はそう考えていた.

しかし,親朝は動かなかった.南朝が優勢か北朝が優勢か,静かに見守っていた.親房は親朝に文を出し続けた.兵を挙げろ,兵糧を送れ.父・宗広を見習え.間違っても北朝には与するな.その文が集古苑に展示されているものだ.小さな紙に几帳面な小さな文字がびっしりと並んでいる.なんとも真面目一辺倒な親房らしい密書だ.

この時期に書かれた親房の応援要請の文は知られているものだけで70通にも及ぶ.そのほとんどが親朝に宛てられたものだ.それでも親朝は動かなかった.その間に親房は足利軍に追われ続けた.神宮寺城,阿波崎城,小田城,関城,行く城行く城を攻め落とされた.

形勢は明らかに南朝に不利だった.事態を冷静に見守っていた親朝はついに旗を挙げた.親房を助けるためではなく,討つためにである.親房の意に反して足利方についたのだ.親房は足利方の総攻撃を受け関城を脱出.東国経営を断念し,後醍醐天皇のいる吉野へと逃れた.

宗広の菩提寺は関川寺にある.ここに宗広の像があると聞いていた.それは本堂の前にあった.大きくはないが,凛々しく猛々しい面構えだ.義を貫くように眼光が鋭く光っていた.

宗広の眼に長男・親朝の南朝離反はどう映ったのだろうか.誰も親朝を非難することはできない.父・宗広の意に反するものだったかどうかも分からない.この時代,家名を残すために兄弟が敵味方に分かれて戦うことはよくあることだ.親朝が南朝に叛いた結果,結城の血統は残った.これは紛れもない事実だ.

本堂の裏に回ると宗広の墓がある.歴史を感じさせる苔むした墓が立ち並ぶ.墓石の上には雪がかかり,緑と白のコンストラクトが妙に美しい.その中で一番奥にあるのが宗広の墓だ.病気でこの地にたどり着けなかった無念はいかばかりか.宗広,親房一行が無事奥州にたどり着いていたら歴史は違っていたかもしれない.

白河の観光スポットは南湖である.定信が築造を命じた公園だ.全国の藩主は様々な庭園を自領に造った.今でこそ我々はそれを目にすることができるが,当時は藩主のための庭園であり,一般には公開されなかった.しかし,定信は四民共楽を掲げ,一般の人達も楽しめるように南湖を築造した.南湖は日本で始めての公園だといわれている.

今回は電車の都合上,時間が限られている.しかも見たい史跡が点在している.南湖はルートから外し,宗広の頃の白河を歩くことにした.歩くコースとしてはお勧めとはいえないかも知れない.歩く距離の割には見所が少ないのだ.健脚でマニアックな人向きなのは間違いないだろう.

まず向かった先は鹿島神社である.坂上田村麻呂が東夷征伐の際に常陸国鹿島大名神を勧請したのが起源だ.白河の総鎮守とされ,武の神が祀られている.南朝として果てた宗広も親光も,そして南朝に叛いた親朝もここで戦勝を祈願したに違いない.この日はちょうど節分の豆まきが行われていた.

鹿島神宮から戻りその先へと進む.雪が歩道を埋め尽くし凍っている.足を滑らせながら歩く.冬のこの時期にこんなところを歩いている人は誰一人いない.向かう先にあるのは感忠銘碑だ.『蔚然たる深秀,我が白河の東に在るものは,結城氏の墟なり』で始まる銘碑は文化4年(1807)に築かれたものだ.この碑は『宗広・親光,忠烈凛凛』と宗広・親光親子の忠烈の功績が刻まれた断崖である.題字である感忠銘の三文字は定信の手によるものだ.

この断崖は宗広の頃の城跡に位置する.風化が進み崩落の危険があり,近づくことはできない.遠目からは刻まれた文字を判読するのは難しいが,感忠銘の三文字だけははっきりと読み取ることができる.

ちょうどこの山の裏側あたりが宗広の頃の白川城に相当するはずだ.最後に行きたいのはこの城跡だった.残念ながら手持ちの地図ではここから登る道はなさそうだ.大きく引き返すことにはなるが,確かな道が残る確実なルートを選択した.

電車の時間が迫っている.早足で先を急いだ.息を切らせながら白川城跡の看板を見つける.ここが城の麓だ.中世の城に石垣はない.なだらかな傾斜の土塁を登る.積もる雪には幾つかの轍,そして幾つかの足跡.自分もそうなのだが,こんなところにまで歩いてくる人がいるのかと思うとなんだか嬉しかった.負けてはいられないと一気に疲れが吹き飛んだ.

頂上にあるのは宗広と共に暴風で押し戻された義良親王,後の後村上天皇の聖蹟之碑だ.

父・宗広への思いを断ち切るかのように現在の小峰に城を移したのは親朝である.自身は新しく小峰氏を創設し,長男・顕朝に宗広の跡を継がせ結城を名乗らせた.南朝離反の汚名は自分が一手に引き受ける.そんな意思にも感じられる.残された資料からは親朝の心の奥底までを窺い知ることはできない. (2009/1/18)

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結城宗広公図

小峰城

三重櫓と前御門

集古苑

浄妙寺本堂

白川城主結城宗広公像

結城宗広公の墓

鹿島神宮本殿

感忠銘碑

感忠銘の文字

白川城跡


今回歩いたコース(誤りがありましたらご指摘いただけますと助かります)

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