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徳川慶喜が見た上野を歩く
南千住の駅を降りる.江戸時代この辺りは刑場だった.小塚原,当時はそう呼ばれていた.明治になって刑場が廃止されるまでに20万人もの罪人がここで処刑されたという.

その遺構は今も残る.刑場跡にたたずむ首切地蔵は寛保元年(1741)に立てられたものだ.処刑された者たちのを霊を弔うために作られたのであろう.台座にたたずみ,罪人の首が飛ぶ様を見てきた証人だ.

刑場は遺体を解剖できる唯一の場所であった.杉田玄白らはオランダから伝わった洋書ターヘル・アナトミアを片手にここで腑分けをした.そして書の解剖図の正確さに驚き,日本語に訳し始めた.解体新書である.まだ辞書などない時代,訳書の作成は困難を極めた.その様子は玄白晩年の著書・蘭学事始(らんがくことはじめ)に詳しい.

解体新書の業績を讃えた観臓記念碑は刑場跡のすぐそば,回向院(えこういん)にある.ここは刑死者を弔うためにできた寺だ.入り口を抜けると鼠小僧や腕の喜三郎,高橋お伝など歌舞伎の演目から有名になった人達の墓が目に入る.そして,その奥には安政の大獄で処刑された吉田松陰や橋本左内の墓が立つ.彼らもここで処刑されたのだ.

ペリー来航以来,国政は揺れていた.開国か攘夷か.時の大老・井伊直弼は朝廷からの勅許を待たずに日米和親条約を締結.攘夷運動は一層激しさを増した.国政をまとめなければならない.直弼は不平分子の弾圧を命じた.安政の大獄である.

松陰や左内をはじめ,名だたる志士が捕縛され,処刑された.この難局を乗り切るためには徳川家を一つにまとめなければならない.大獄の魔の手は徳川家の中枢にもメスを入れ始めた.直弼は将軍継嗣問題も一気に方を付けようとしたのだ.槍玉にあがったのは水戸徳川家である.

時の十三代将軍・家定は病弱だった.先の水戸藩主・徳川斉昭は子の慶喜(よしのぶ)を一橋家に送り込み,将軍擁立を計っていた.慶喜を支持する一橋派は大獄の標的になった.斉昭は永蟄居.慶喜には隠居・謹慎が命じられた.

この一橋慶喜こそ,後に15代・最後の将軍となる徳川慶喜である.彼ほど評価の難しい人物はいない.時代の流れから考えれば,遅かれ早かれ幕府は滅びる運命にあったであろう.そう考えると『徳川宗家を残すこと』それが将軍としての使命である.結果的に見れば慶喜はそれに成功した.見事にやってのけた.

しかし,そこにたどり着く方法は適切だったのだろうか.そう考えると首をかしげてしまう.

将軍になる前の評価は高かった.『権現様の再来』とまで言われた人物である.安政の大獄で豪腕を振るった直弼は暗殺され,幕府の人材は明らかに不足していた.そんな時である.鳴り物入りで将軍になった.

しかし時既に遅く,幕府は修復不可能なほどに傾いていた.慶喜にできること,それは新しい政治体制を作ることだ.そのためにはひとまず政権を返上しなければならない.慶喜はすぐさまそれを実行した.大政奉還である.天皇に政権を返上し,慶喜自身が将軍から退位した.とは言ってもこれまで政治を動かしてきたのは幕府だ.朝廷に政治能力はない.徳川家を中心に新しい政治体制を作らなければならない.慶喜はそう考えていた.

以前から手は打っていた.西周(にしあまね)をオランダへと遣わし,ヨーロッパの政治・法律・経済を学ばせていた.慶喜は議会はイギリス制,軍隊はフランス制を規範にしようとしていたようだ.イギリス議会は名誉革命によって王室と政治の分離に成功した.日本の天皇制ともよく合致する.そう考えていた.

しかし,政局は慶喜の思わぬ方向へと動き始めていた.

王政復古の大号令の後,薩摩・長州両藩は武力での倒幕を推し進めた.薩長軍はイギリスの支援を受けて兵器の近代化を進めた.幕府の軍制はフランスからの支援を受けている.これは薩長対幕府の戦いではない.裏で糸を引くイギリスとフランスの戦いなのだ.内戦による国力の消費.これこそが両国の思惑だった.

この当時,ヨーロッパの列強は圧倒的な軍事力を背景として外国の内政に干渉した.武器や阿片の輸出で多額の外貨を稼ぎ,植民地政策に明け暮れていた.まさに死の商人である.香港を始めとしてアジアにも多くの植民地ができていた.日本に第二の香港を作ってはいけない.国力を疲弊させてはならない.慶喜はひたすら戦争回避に立ち回った.

鳥羽・伏見の戦いが始まると幕府軍を置き去りにして大坂から江戸へと逃げ帰った.敵前逃亡だと罵られてもひたすら逃げた.自分が担ぎ出されてはいけない.自ら蟄居し,ひたすら謹慎した.その場所が今日の目的地・上野寛永寺だ.

小塚原から寛永寺へは日光街道でつながる.現在の国道4号線,旧街道は一本奥の通りだ.なんとなく寛永寺を歩くなら,木枯らしの吹く季節,小雨の降る日だと思っていた.慶喜が寛永寺で一人たたずむ姿と交錯する.生憎の暖冬でまだ寒くは無いが,空を見上げると雨が降り出しそうなちょうどそんな天気だった.

寛永寺の前に寄りたいところがある.日光街道沿いの円通寺だ.慶喜の謹慎中に旗本衆が兵を挙げた.彼らは上野に立てこもり慶喜助命を嘆願した.彰義隊である.時代に乗り遅れた者たちが慶喜を慕い集まった.この期に名を挙げようと気を吐くものもいた.

この時期,薩長軍は兵器の急速な改革を進めていた.対して彰義隊は言わば烏合の衆である.上野戦争の勝負はわずか半日でついた.緒戦はよく戦った.しかし加賀藩上屋敷からアームストロング砲が打ち込まれると,見るも無残に負け崩れた.近代兵器の前に多くの彰義隊士の命が散った.新政府軍は見せしめのために遺体を弔うことを禁じた.片付けることすら許さなかった.遺体は放置され,異臭を放った.見かねた寺の和尚が遺体を集め,埋葬した.それが円通寺の和尚である.

これが縁となり,上野戦争で銃撃を受けた黒門が円通寺に移築された.近付いて見るとおびただしい弾痕が残る.戊辰戦争は日本で初めての近代戦争である.あまりの銃の威力に怯えながら乱射したのではなかろうか.そんな風に感じさせるほど弾痕数が多い.弾痕を見ていると黒い門が一層黒く感じられた.

寛永寺の前にもう一箇所寄り道しておきたい場所があった.慶喜の墓所である.少し回り道になるが慶喜を偲ぶには是非とも足を運びたい.墓所は寛永寺の飛び地ではあるが,実質的には谷中霊園内にある.将軍家は代々,増上寺と寛永寺に祀られた.仏教系の墓に祀られた.しかし慶喜は神道による墓所を希望した.

そのため,将軍家の廟所には入らず,寛永寺のはずれに自分のための神道の墓を作った.墓所には三基の円墳墓が立つ.中央の二基が慶喜と美賀子夫人のものだ.最後の将軍・大政奉還した将軍として将軍家の墓所には入れなかったのだと思っていたらどうもそれは違うらしい.水戸徳川家は代々神道だ.慶喜はその神道を貫いた.墓前にいた歴史好きのガイドの方がにこやかに教えてくれた.

慶喜の墓所から寛永寺に向かう.ここまで来れば目的地はもう目と鼻の先だ.

京都御所の北東には比叡山延暦寺が置かれた.陰陽道では丑と寅の間(北東)を艮(うしとら)と呼び,鬼が出入りする方向と考えた.そのため北東を鬼門と呼び忌み嫌う.延暦寺は御所の鬼門を封じているのだ.江戸の街づくりもこれに倣った.寛永寺は江戸城の鬼門封じだ.

家光は天海に寛永寺開山を依頼,寛永寺は天台宗の本山として絶大な権勢を誇った.最盛期には今の上野公園の2倍もの面積があったという.しかし,上野戦争で多くが焼き尽くされ,延焼を免れた建物も第二次世界大戦で焼失した.

現在の本堂は川越の喜多院から移築されたものだ.その裏手にある綱吉の厳有院霊廟勅額門は両戦災を免れた数少ない遺構だ.中に入ることはできないが外から概観を見ることができる.寒々とした景色の中,朱が際立っている.慶喜が蟄居したという葵の間や徳川家の霊廟が非公開なのは残念だ.

家康,家光,慶喜が祀られている上野東照宮も延焼を免れた.上野駅に向かう前にこの辺りもよく散策したい.上野公園はとにかく広い.国立博物館や美術館,図書館など明治後に建てられたレンガ造りの近代建築物に目が行きがちだが,戦災を免れた近世の遺構も幾つか点在している.

上野公園の代名詞ともいえるのは西郷隆盛の像である.西郷は上野戦争において黒門口で采配を振るった.像はその付近に立っている.近くのベンチで休んだ.次から次へと人が流れ,途絶えることは無い.多くの人が西郷像を前に足を止め,記念写真を撮る.しかしその裏手にも目を向けて欲しい.木々に囲まれてひっそりと彰義隊の墓が立っている.墓の銘にはただ戦死之墓とだけ刻まれている.明治政府をはばかって彰義隊の文字は省略された.

彰義隊や白虎隊の悲劇を生むことになった慶喜の蟄居.慶喜は自分自身の保身だけを考えて蟄居したのだろうか.臆病風に吹かれて徹底抗戦を主張しなかったのだろうか.その考えにも首をかしげてしまう.慶喜が薩長軍との徹底抗戦を主張すれば,日本全土を巻き込む大きな戦になったであろう.

江戸城を歩いた時に感じた.無血開城をせずに徹底抗戦していたら勝敗は分からなかったのではないか.江戸城はそれほど広大な要塞である.しかし,どちらが勝ったとしても江戸中が焦土となり,国力は激しく疲弊したであろう.それこそ諸外国の思う壺だ.

慶喜の寛永寺蟄居.これによって日本を二分するような大きな内戦は回避された.そして結果として明治政府は近代国家へと生まれ変わり,日清・日露両戦争を経てヨーロッパ列強と肩を並べるだけの力をつけた.この結果は事実である.大きな内戦が起きていたらこうはならなかっただろう.

これは慶喜の描いたシナリオが導き出した結果のようにも思える.しかし慶喜の行動とは無関係のようにも思える.肝心の慶喜は何も語っていない.慶喜が何を考えてひたすら恭順したのか,本当のところは分からない.日本のためか保身のためか.分かっているのは結果だけである.

やはり彼ほど評価の難しい人物はいない. (2007/11/11)

文章力向上のため,採点に御協力願います:
面白い, まあまあ, 普通, あまり, 面白くない

 

徳川慶喜公写真

小塚原の首切地蔵

吉田松陰,橋本左内の墓所

円通寺黒門

円通寺彰義隊の墓

天王寺五重塔跡

徳川慶喜公墓所

寛永寺本堂

徳川綱吉霊廟勅額門

旧因州池田屋屋敷表門

寛永寺表門

寛永寺五重塔

上野東照宮

彰義隊の墓

西郷隆盛像


今回歩いたコース(誤りがありましたらご指摘いただけますと助かります)

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