トップへ

  トップ 書評 掲示板 リンク

井伊直弼が見た彦根を歩く
彦根藩.藩祖は井伊直政.徳川家康に仕えて多くの戦功をたて,徳川四天王の一人に数えられる.井伊の軍兵は甲冑・旗差物・鞍・鎧・鞭にいたるまで赤一色で統一.勇猛果敢な戦いぶりから戦場では井伊の赤備えと恐れられた.

この赤備え,元を正せば武田の家臣山県昌景の軍兵の姿である.家康は武田を破った後に直政に赤備えを受け継がせた.家康がいかに武田を恐れていたかが分かる.彦根の駅を降りると,駅前には甲冑を付けた直政の銅像が立つ.

この直政から数えて13代目の藩主が,井伊直弼.幕末期に大老に就任.勅許を待たずに独断で日米修好通商条約に調印.安政の大獄で橋本左内や吉田松陰らを処刑.独断的な政治が反発を生み,水戸・薩摩藩士によって江戸城桜田門外の変で暗殺される.これがよく知られる井伊直弼であろう.

歴史小説や教科書などでは悪役の感が強い直弼.明治期には国賊とまでいわれた.しかし,後世に名を残すほどの人物が並の人間であるはずがない.彦根の町を歩いてみると直弼が尊敬の念を持って受け入れられていることが分かる.

幕府の大老にまで昇りつめ,輝かしい経歴を持っているかに見える直弼.しかし,青春時代は決して恵まれていた訳ではなかった.

直弼は11代藩主直中の14男である.井伊家では嫡男以外は他家へ養子に行くように決められていた.直弼には養子の口も無く17歳から32歳までの15年間を三百俵の捨扶持の部屋住みとして過ごした.自分自身の境遇を,

世の中を よそに見つつも埋木の 埋れておらむ 心なき身は

と詠み,自ら埋木舎(うもれぎのや)と名付けた住居で武術の錬磨と研究に熱中した.恐ろしいほどの多芸である.兵学・剣術・槍術・居合術・弓術・柔術・砲術などの武術を始め,国学・書・画・能・禅・仏教・陶芸・華道・茶道など,ありとあらゆる学問や芸術に精通していた.しかも,そのどれもが一派を成すほどの腕前だったという.

駅からしばらく歩くと彦根城に着く.城に入るすぐ手前が埋木舎である.直弼の側近であった大久保小膳は明治維新に際し,藩文書の保存や彦根城天守閣の保存運動の功績によって埋木舎が与えられた.埋木舎は現在も大久保氏の所有であり,好意によって公開されている.

ここで長野主膳と親交を深める会合が持たれていた.そう考えると感慨深いものが込み上げてくる.あまり知られていないかもしれないが,昭和38年に放送されたNHK大河ドラマの第一号は『花の生涯』.井伊直弼が主役だ.この埋木舎が主舞台であり,実際の撮影にも使われたという.

解説員の口から流れ出るような直弼像に聞き入った.そうこうしていると,普通は舎の外周から内部の展示を見るだけなのだが,興味がありそうだからと,埋木舎の中に上がらせてもらえた.襖には直弼が書いたという竹の絵がある.確かに画家としての腕前も並ではない.繊細な色使いに直弼の几帳面さが窺える.

埋木舎といっても住んでいるのは藩主の息子である.直弼の使う部屋は身分の高さを示して高い天井作りになっているのには驚いた.その解説ぶりから直弼を尊敬してやまないという感じの解説員の方にお礼をいい,埋木舎を後にした.

直弼の境遇が変わったのは36歳の時である.藩を継いだ兄の直亮が子を持たぬまま死去.彦根藩35万石の藩主の座が回ってきた.今まで近くで見ていた彦根城が自分の城になったのだ.

時代劇でよくみかける天秤櫓をくぐり,その上を渡ると彦根城の天守が見える. 天守が現存する城は全国に12あるが,中でも彦根城は松本城,犬山城,姫路城と共に国宝に指定されている.

桜の時期であったため,多くの人で賑わっていた.最近では大阪城や名古屋城を始めエレベータのついている城もあるが,やはり現存する城は趣があっていい.なんとも上りにくい階段.傾いてゆがんだ床.そのすべてに歴史を感じる.

彦根城の表鬼門(東北)の方角には井伊家に縁ある寺社が点在する.せっかく彦根に来て,城の見学だけではもったいない.少し距離はあるが,そこまで足を伸ばすべきだ.

まず最初にたどり着くのが井伊家の菩提寺である清涼寺.直政を始め歴代の藩主の墓がある.直弼は埋木舎時代にここで禅の修業をした.続いて龍潭寺.ここも井伊家の菩提寺で芭蕉十哲の一人である森川許六によって描かれた方丈襖絵が伝えられている.

この龍潭寺,入口には石田三成の像が鎮座している.なぜこのようなところに?と思うかも知れない.関ヶ原以前,この地を治めていたのは石田三成であった.彦根城の築城以前は龍潭寺の裏に位置する佐和山に城が築かれていた.

関ヶ原で三成が敗れたあと,直政に佐和山城が与えられた.直政は領民の思慕を断ち切るために佐和山城を取り壊し,彦根城を築いた.このような歴史的背景から,龍潭寺は関ヶ原では敵味方に分かれた三成と井伊家にまつわる遺品が混在する不思議な寺である.

龍潭寺を過ぎると,管理する人がいなくなり荒れ果てたままの井伊神社があり,その先には長寿院がある.これは,日光東照宮建立の総奉行であった井伊直興が,厄除けと城を守る備えとして建立したものだ.日本三大弁財天の一つの弁財天坐像が奉られていることから大洞弁財天と呼ばれている.

極彩色に塗られた欄間は眠り猫や象の彫刻があることから彦根日光とも呼ばれる.山門からの景色を見て驚いた.山門を通して彦根市内を見ると山門の額縁の中にすっぽりと納まるように彦根城が配置されているのだ.美しい風景はここまで歩いてきた疲れを忘れさせる.

さて,歴史は変えられない.直弼の最期は桜田門外の変である.

独断で日米修好通商条約に調印.一橋慶喜を中心とする尊王派を退け,将軍継嗣問題を強行に採決.安政の大獄によって水戸藩主や一橋慶喜らを隠居謹慎処分.直弼は強行姿勢を貫いた.これらの圧迫に反発した水戸藩士17名は薩摩藩士1名を加えて,直弼暗殺を計画.

万延元(1860)年3月3日.この日は上巳の節句で,季節はずれの雪が降っていたという.早朝,愛宕山に集結した水戸藩士らは江戸城桜田門に向かった.江戸での井伊家上屋敷は桜田門のすぐ近くである.直弼は駕籠に乗って登城.水戸藩士らは直訴を装い,駕籠に近寄った.

暗殺当日の早朝,直弼の元には水戸脱藩者の襲撃を警告する封書が届いていたという.それでも,直弼は警護の藩士を増やすこともなく,いつも通りに屋敷を出た.自分の死のみが日本の生き残る唯一の道であることを感じとっていたのかも知れない.

直弼の死後,幕府から直弼以上の政治家は出ていない.直弼は開国反対派に暗殺されたが,これからの日本はしばらくの迷走の後,直弼の思い描いていた方向へと動き始める.直弼の思想は時代の先を走り過ぎていた. (2005/4/9)

文章力向上のため,採点に御協力願います:
面白い, まあまあ, 普通, あまり, 面白くない


龍道 真一 『化天(げてむ)―小説最後の武士・井伊直弼』廣済堂出版

桜田屋敷の門が開かれた.門の外は白い世界が広がっていた.その白い世界に向けて,伊井の赤合羽を着た直弼の行列がゆっくりと進み始めた.直弼の行列は,桜田屋敷からすぐの桜田門へと進んだ.伊井の赤合羽の行列が桜田門の方へと粛々と向かって行く.雪は激しく降り続いている.

 

井伊直弼肖像画

井伊の赤備えの具足

埋木舎

彦根城佐和口多聞櫓

彦根城天秤櫓

彦根城天守

清涼寺

龍潭寺方丈襖絵

石田三成公像

井伊神社

長寿院

長寿院弁才天堂欄間


今回歩いたコース(誤りがありましたらご指摘いただけますと助かります)

トップページへ

Copyright(c) Masaki Onishi All rights reserved.