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足利義満が見た北山第を歩く
我が家には後円融天皇が書いたと伝わる掛け軸がある.そのいわれは知らないし,真筆かどうかも分からない.桐の箱に入れられたその掛け軸には古びた鑑定書が二通添えられている.その片方は相当な年代もので,多数の虫食いがある.素人目にはこちらの方が古く価値があるのではないかと思ってしまう.

この掛け軸は後円融天皇が詠んだ和歌の短冊を表装したものだ.流れるような草書で書き綴られた文字ではあるが,残念ながら私には読むことができない.江戸時代の百科事典『和漢三才図会』によると,後円融天皇は勅筆流の祖とある.きっと達筆には違いない.

後円融天皇は南北朝時代の北朝第五代目の天皇である.南朝と北朝のどちらが正統かという論議は古くから続けられてきたが,明治になって南朝が正統だという勅裁があった.このため北朝の天皇五人は正確には歴代天皇には含まれない.しかし吉野に居を構えた南朝に比べ,京にあった北朝は政(まつりごと)に近いところにいた.が,正に傀儡であった.

後円融天皇には同い年の従兄弟がいる.この男こそが真の権力者だった.その男の名は足利義満.室町幕府の三代将軍だ.後円融天皇と足利義満は母親が姉妹なのだ.義満が将軍職を継いだ頃,まだ幕府の力は弱かった.それが明から日本国王といわれ,政治手腕によって皇室を乗っ取らんばかりの権力を持った.

室町幕府の祖,足利尊氏が死んだ年に義満は生まれた.南北朝の対立抗争は依然として繰り返され,幕府はまだ足元も覚束なかった.居は京に構えていたが,二代将軍・足利義詮(よしあきら)は南朝の楠木正儀(まさつら)らに攻め入られて近江へ敗退.わずか三歳だった義満は近習に守られ播磨へと逃れた.1年後には京都を奪還するが,南朝と北朝のどちらが優勢か,この時点では分からなかった.

義詮の病死によって義満が将軍を継いだのは11歳の時である.南朝では後醍醐天皇や北畠親房などの実力者は既に亡く,弱体化し始めていた.一方で北朝の幕政は管領の細川頼之の補佐によって安定してきた.北朝優位の目が出てきた頃である.

名実共に将軍になった義満は幕府を三条坊門から北小路室町に移した.室町幕府の名はこの地名に由来している.この将軍邸は御所の2倍以上の広さだったという.庭内には鴨川から水を引き,その水が御所へと流れる.天皇家よりも将軍家の方が上だというアピールに違いない.四季折々の花木の美しさから『花の御所』と呼ばれた.

京都御所のすぐ北に位置する同志社大学.烏丸通を挟んで西側に室町幕府の花の御所があった.今は址碑が立つだけで当時の面影を残す遺構は何も無い.今出川通を少し東へと歩き,そこから同志社大学の中を抜ける.その先にあるのが相国寺だ.相国寺は京都五山の第二位に位置する.それにしては無名だ.期待せずに足を踏み入れたのだが,その規模の大きさに驚いた.

相国寺は義満によって立てられた寺だ.ここに100メートルを超える七重大塔を建てた.正に京都御所を見下ろすかのように威厳に満ちたものであった.公家に対する見せつけであろう.しかし,落慶供養からわずか二年で火災に見舞われ全焼.すぐに再建するが義満没後の応永32年(1425)に再び全焼している.やはり公家の手による放火であろうか.

相国寺はその後も不運な運命をたどっている.応仁の乱の際には細川家が陣を敷きそのほとんどを焼失.その後も度々火災に会い,天明の大火(1788)では法堂以外のほとんどを焼失した.焼失を免れた法堂は今に残る最古の法堂だという.豊臣秀頼によって再建されたものだ.天井の蟠龍図は狩野永徳の嫡子・光信の筆.どの位置から見ても睨まれているように感じられ『八方睨みの龍』と呼ばれている.眼光に迫力がある.

義満は相国寺を五山に加えるために五山第一位だった南禅寺を別格に据え,尊氏建立の天龍寺に次いで,相国寺を第二位に位置づけた.あまり有名ではないためかほとんど人通りはないが,秀頼の建てた法堂は堂々とした風格を漂わせている.ゴールデンウィーク中の京都とは思えない静けさに満ちていた.

相国寺は有名ではないが,相国寺の境外塔頭はあまりにも有名である.金閣(鹿苑寺)と銀閣(慈照寺)だ.地図を広げると,相国寺を中心として西に金閣,東に銀閣が位置している.金閣を作ったのは義満.銀閣を作ったのは八代義政だ.

義政の墓はここ相国寺にある.奥に足を踏み入れると幾つもの墓が並び,その中の一画に藤原定家と伊藤若沖の墓に挟まれ義政の墓がある.三基ともタイプが違い面白い.墓所に立ち寄り,今日の歩きの最終目標の金閣を目指すことにした.

義満は藤原公経から譲り受けた土地に北山第を造営した.その代表が金閣である.義満が北山第に移ってからはこちらが政治の中心になった.相国寺と北山第は随分と離れているが,義満は何度もここを往復しただろう.途中,見所は少ない.大徳寺に立ち寄ることにした.大徳寺は元々南禅寺と並ぶ五山の上位であった.

しかし,尊氏が五山の制度を改革した際に反発,五山から離脱した.朱塗りの三門が美しい.この三門には茶人の千利休切腹の原因とされる一つのエピソードが残っている.利休が門の上層に自分自身の木像を安置し,秀吉にその下をくぐらせたというのだ.残念ながら今では門は閉ざされていてくぐることはできない.

さて大覚寺から金閣はもう一息である.金閣に近付くに連れて人が増えてきた.さすがにゴールデンウィーク中とあって混雑している.ここに来てようやく京都に来たという気分になってきた.中へ足を踏み入れると,教科書などでよく見かける湖面に映る金閣が目に飛び込んできた.

金閣は一階が寝殿造で公家文化を表し,二階は武家造で武家文化を表しているという.さらに三階は中国風の禅宗仏殿造である.金箔が貼られているのは二階と三階だけで,一階は白木造である.一般には公家と武家の融合の文化だといわれている.

しかし,『逆説の日本史』で有名な井沢元彦氏の指摘によるとこれこそが公家の上に武家がいることの顕示だという.金もない“粗末な公家”の上に“金箔の武家”があると考えればいいというのだ.そして,その上の中国風は出家して形式上は禅僧だった義満を表しているのだという.確かに中国皇帝から『日本国王』と認められた義満は中国に一番近いともいえる.

もう一度,近付いて金閣を見上げてみた.きらきらと輝く金箔は権力の象徴だ.目に眩しい.確かに井沢氏のいう通りかもしれない.さらにその上,屋根にいる鳳凰は聖なる王が出現したことを表しているのだという.

中国には百王説という思想がある.王が百代まで続くとその代で滅び新たな王が生まれるという思想だ.この頃の日本に広く流布していた.今では第百代の天皇は後円融天皇の息子・後小松天皇になっている.しかし当時は壬申の乱の大友皇子である弘文天皇が天皇には数えられていなかった.しかも北朝が正統だから第百代は後円融天皇ということになる.

義満は百王説の風説を利用して皇室の乗っ取りを計画した.そもそも義満は天皇家とそんなに遠い間柄ではない.源氏の棟梁であるから清和天皇の血を引いている.義満の母・紀良子は順徳天皇の血を引いているから義満は順徳天皇の五世の孫になる.先にも触れたように後円融天皇とは従兄弟だ.

それでも万世一系の天皇制では足利家は天皇にはなればい.

義満は外堀から埋めていった.南北朝合一を果たした後は将軍職を嫡男・義持に譲り,公家のトップ太政大臣に昇進.また,明に日本国王だと認めさせた.さらに後小松天皇の母が病弱だったことを理由に妻・日野康子を『准母』に据えた.康子が准母なら義満は必然的に『准上皇』という立場になる.さらに義満は次男・義嗣の元服式を宮中で行った.これは皇太子を定める立太子の儀式を兼ねていた.積極的に百王説を流布した.

北山第で可愛がっていた次男・義嗣を天皇にする基盤は着々と固められた.立太子式は正に足利家による皇位簒奪への王手であった.後小松天皇が譲位すれば足利天皇の誕生である.しかし,わずか十日余りで義満は突然死去する.タイミングがタイミングだ.毒殺の疑いを指摘する研究者も多い.しかし証拠は何も残っていない.

南北朝時代に終止符を打ち,息子を天皇にしようとした怪物政治家の最期はあっけなかった.朝廷は義満に太上天皇の称号を贈ろうとするが,将軍義持はこれを辞退.さらに義持は天皇になりかけた弟・義嗣を殺害した.父の行動を苦々しく見ていたのは義持かもしれない.義持によって北山第は壊され,金閣だけがそこに残った. (2008/4/27)

文章力向上のため,採点に御協力願います:
面白い, まあまあ, 普通, あまり, 面白くない


井沢 元彦 「天皇になろうとした将軍」小学館文庫

結局この金閣は,神殿造に住む公家(あるいは天皇)よりも武家が上で,さらにその上で一番エライのはこのオレ様だということを言っている.そういう思想(?)を具体化した建物なのだ.その証拠はもう一つある.金閣の上の鳳凰がそれだ.

 

足利義満公

室町幕府址碑

相国寺法堂

相国寺浴室

足利義政の墓

相国寺庫裏

後水尾天皇歯髪塚

大徳寺三門

大徳寺法堂

金閣

方丈と陸舟の松

巖下水義満公お手洗の水


今回歩いたコース(誤りがありましたらご指摘いただけますと助かります)

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